“What is the meaning of life? Life is for the absolute satisfaction of God the Creator and God the creation. The meaning of life is to become inseparably one with God the transcendental Bliss and God the universal Peace.”
Sri Chinmoy, A Peace-Collecting Pilgrim-Soul, Agni Press, 1971
絶対なるもの
思考もなく形もなくただ存在するのみ
今すべての意志と思考はやんだ
自然の舞いが終わるとき
探し求めていたその者となる
明かされた究極の至福
知る者と知られる者のかなた
ついに限りない安息を楽しむ
ただひとりの御方と対峙する
秘められた命の道を越え
私はゴールとなる
不変の真理は明かされ
私は道、神の魂となる
精神はすべての高みを知り
太陽の核の中で沈黙する
時と行為と引きかえにするものはなく
宇宙の戯れは終わる
冥想は、真実を見る眼であり、真実を感じる心であり、真実を実現する魂です。
冥想を通して、魂は永遠の旅における進化に、完全に気づくことになります。冥想を通して、形あるものが形ないものに、有限なものが無限なものに進化し、そして形ないものが形あるものに、無限なものが有限なものに進化するのを見ることになります。
冥想は語ります。沈黙のうちに語ります。そして明かされます。事物と精神がひとつであること、量と質がひとつであること、内在するものと超越的なものがひとつであることが、熱望する者に明かされます。命とは、たんに生まれてから死ぬまでの七十、八十年の間、存在するものではなく、永遠そのものであることが明かされます。私たちの誕生は、神ご自身の存在にとって意味のある出来事です。そして私たちの死についても同じです。誕生するときに命は肉体に宿り、死に際して命は精神に宿ります。
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冥想とは、意識的な自己の拡大を意味します。冥想とは、その人自身の真の自己に気づき、真の自己を発見することです。冥想を通して、私たちは限界、不完全、束縛を乗り越えます。
冥想とは、意識の内なる乗り物の原動力です。冥想のときに私たちが実際にしていることは、自身の存在のより深いところへ入っていくことです。そのとき私たちが内奥に宿している財産を、前面に出すことができます。冥想は、何かを熱望する方法を教えてくれると同時に、そこに到達する方法をも教えてくれます。毎日冥想を実践すれば、日常生活で生じる問題は、それが内的なことであれ外的なことであれ、確実に解消されます。
精神的な心は、限りなく偏在する愛の中心です。心の深いところには、内なる神性、魂があります。精神的な心でおこなう冥想は、もっとも安全で、もっとも実りの多い道です。この冥想では、心にすべての注意を集め、マインド〔 おもに言葉によって思考する頭の働きのこと 〕を静かにさせて、さらに深いところにある平和、喜び、愛に届くまで内奥へと飛び込みます。想像力の助けを借りて、心の内に花が咲く絵を想像するのもよいでしょう。このとき花が開いていくにつれて、私たちの内なる神性が、自身の存在全体に広がっていくのを感じるでしょう。私たちはこの心から湧き出る流れに浸り、その流れは私たちの中に広がっていき、私たちの意識ははるかかなたへと運ばれていきます。心でおこなうもっとも深い冥想では、私たちはあらゆる思考から離れたはるかかなたにいます。聖なる存在、愛されるものとの沈黙の交わりに溶け込みます。冥想は、最高の自己と意識的に一体となるところへ、私たちを導きます。
冥想は、海の底へ行くことと似ています。そこでは、すべてが穏やかで静かです。海面には無数の波が立っているかも知れません。しかし、海の中はその影響を受けません。もっとも深いところでは、ただ静けさがあるのみです。まず冥想を始めるとき、私たち自身の内なる存在に、つまりは海の底にたどり着くように努めます。そのとき、外の世界から波がやって来てもその影響を受けません。私たちの内は平和に満ちているため、恐れ、疑い、心配、そういったあらゆる現世の混迷は、ただ洗い流されるのみです。私たちのマインドは、まったくの平和、沈黙、一体感となっているので、思考が私たちに触れることはできません。海にいる魚のように思考は飛び跳ねて泳ぎますが、そこには何の痕跡も残りません。こうして私たちが最高の冥想にいるとき、私たちは海であると感じ、海にいる動物は私たちに何の影響を与えることもできません。また、私たちは空であると感じ、空を飛ぶ鳥たちは何の影響を与えることもできません。私たちのマインドは空であり、私たちの心は限りない海です。これが冥想です。冥想の高いところへ行きたいと望むとき、私たちの抱く熱い想いは、恐れを感じることなく最高のところへと昇っていきます。私たちは無限の中を進んでいるので、上へと昇る旅に終わりはありません。さらに乗り越えていくかなたへと、私たちは昇っていきます。距離という点からみると、上方と内奥へ進むことはともにひとつのゴール、スープリーム〔 至高なる者。絶対の真理に呼びかける言葉として用いられる 〕へと向かう限りない旅なのです。けれどもマインドを使うのでは、高いところへ進むことはできません。マインドを通って、マインドを越えて、もう一度精神的な心の領域へ入っていかなければなりません。精神的な心の領域は、最高のマインドの領域よりもはるかに高く、はるかに広大です。マインドをはるかに越えたところが心の領域です。心はあらゆる方向に限界がなく、心の中は最高の高みであり最奥の極みです。
高いところへ行くほどに、深いところへ進むことができます。また、深いところへ行くほどに、高いところへ進むことができます。それらは同時に進んでいます。力強く冥想できると、とても高く、かつ深いところへ進んでいると感じます。高さと深さは一緒に進みますが、それらはいわば異なる二つの次元で働いています。しかしある人が冥想で高いところへ行くことができるなら、その人はとても深いところへ行く能力も持っているのです。
もっとも高いところを実現する前には、高さと深さに違いがあると感じます。昇っていくときには、ある高さに達したと感じるでしょう。深い内部へ飛び込むときには、ある深さに達したと感じるでしょう。しかし高さと深さのどちらもが、精神の意識の中にあります。一度マインドの障壁の向こう側へ行き、普遍の意識に入れば、すべてはひとつであり分けられないことを知ります。そのときには、唯一現実だけが私たちの中で歌い踊ります。そして私たちは現実そのものになります。高さも深さも長さもありません。すべてはひとつであり、同時にそれ自身の限界を越えていく時なのです。
冥想には、絶えることのない熱い想いの炎があります。私たちの旅は永遠です。私たちの進歩と実現は、無限と永遠と不滅とにかかわっているので、絶えることなく続いていきます。
冥想とは、無限なる現実と、永遠なる現実と、絶対的な現実を求める人の渇きです。冥想の極意は、意識的に神との不断な一体感に到達することです。冥想の一番の極意は、神をまさにその人自身として感じ、ついには神の目的のために神を実現し、神を明らかにし、神を満たすことです。
冥想とは、自己を超越することです。自己の超越とは、かなたからのメッセージです。かなたからのメッセージとは、永遠に進化していく魂としての神、永遠に満たしていくゴールとしての神なのです。
冥想は、あなたにただひとつのこと、神とは何かを教えます。冥想は、あなたにただひとつの真実、神のヴィジョンはあなたのものである、ということを明かします。
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冥想とは沈黙です。それは力を与え充実をもたらす沈黙です。沈黙は語り得ぬことの雄弁な表現です。
私たちが冥想から得る、いちばん最初に期待することはなんでしょうか。それは平和です。平和以外の何ものでもありません。
平和は愛のはじまりです。平和は真実の完成です。平和とは源に帰ることです。
冥想はいつでも、鳥の翼のように、平和、光、喜びの中で広がっていきます。
冥想だけが、完璧さを生み出すことを可能にします。冥想は、欲求不満の感覚の向こうへ、合理的理性の限界の向こうへ、私たちを連れていきます。そして最後には、冥想は完璧さの息づかいを私たちにもたらします。
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冥想は、私たちが瞬間から瞬間に生きることを助けます。そして、その瞬間瞬間に、永遠なる今が存在します。永遠を一つ一つの瞬間に分けることはできません。これが瞬間であり、ここにある永遠があらゆるところにあります。永遠は、現在、過去、未来を形作ります。
永遠の中に瞬間があり、瞬間の中に永遠があります。それは海に似ています。海の中に無数の水滴があり、一つ一つの水滴は、広大な海のエッセンスを持っています。水滴は広大な海を具体化するものなので、水滴を手にとればすぐに広大な海の意識を手にすることができます。同じように、一つ一つの瞬間を永遠と無限から分けることはできません。冥想は、有限なものと無限なものがひとつであることを感じる唯一の方法です。
冥想は、私たちが現実から逃げ出すことを促すものでしょうか。ちがいます。その反対に、冥想は神の創造物を、変容と完全さを待ち望む紛れのない現実として受け入れるようにと、私たちを鼓舞します。地上の意識が変容し、肉体の意識が変容するときにのみ、私たちは無限の真実と無限の光を受け入れる真の器になることができます。冥想をする人は、人間性の中で、聖なるヒーローのようにふるまうものです。人間性とは神の一部です。人間性を横に放っておいたままで、どうして神性にたどり着くことができましょう。私たちはこの世界をあるがままに受け入れなければなりません。今あることを受け入れないとしたら、どうしてそれを変容させることができましょう。焼物師が粘土の固まりに触らなかったら、どうして壺の形にすることができましょう。私たちの周りにある世界は完全ではありませんが、私たちもまた完全ではありません。完全なる完璧さはまだ現れていません。現在の人間性は、完璧さから程遠いところにあることを知らなければなりません。しかし、私たちは同時にその人間性のメンバーです。私たちのまぎれもない手足である兄弟、姉妹を、どうして捨て去ることができましょう。私には、自分の腕を切り捨てることはできません。それは不可能です。同じように、私たちが心を込めて献身的に冥想するとき、人間性をまさに私たち自身のこととして受け入れる必要があります。私たちと共にあらねばならないことです。もし人より一歩でも先に前進していて、他の人を鼓舞することができるところにいるなら、私たちは、後をついてきている人たちに神性を与える機会を持っているのです。
私たちはヒマラヤの洞窟にこもる必要はありません。今、ここにある世界と対峙していくべきです。人間性の中にある神性に捧げる力で、この世界の外面を変容していかなければなりません。冥想は逃げることではありません。冥想とは、生活を全体として受け入れることです。そうして、この現世における聖なる真実の最高の顕現のために、生活を変容していくのです。